■■■ 風をこの手に 亜麻色の髪が、海風にそよぐ。手入れなどまったく気にしていないのに、絹糸のようにさらさらの手触りらしい。 と、以前酔っ払ったシグルドが自慢そうに言っていた。ハーヴェイは特に知りたくなかった。そもそも、あの丸い頭を乱雑にかき混ぜたことくらいあったので、目新しい情報ではなかった。男の髪の感触なんて、別に覚える必要がなかっただけで。 「お久しぶりです」 よく晴れ渡った日の、水底まで透き通るような海の色。 どこか懐かしく、引きずり込まれそうな深さを持つ双眸が細められる。口元が微かに緩んだ。それが彼の親愛の表現だと、知っていた。 赤と黒を基調にした服。ハーヴェイと(腹立たしいことに)同じ身長でありながら、一回りは細身の体。だが腰に下げた双剣を振るう腕は、荒くれ者揃いのキカ一味と比べても上位に入る。 見慣れた、だが失ったはずの、姿だった。 「……は?」 オベル王国の使者が乗ってきたはずの船から下りてきた少年を、思わずハーヴェイは二度見した。 「ほう」と頷いたのは斜め前に立つキカだ。眉が上がっていたから、驚いてはいるらしい。 そして隣の相方を横目で見やれば、呆然と目を見開いていた。こちらは動揺が丸出しすぎる。 騎士然としたエスコートを受けるフレア王女が、察したように苦笑した。 今日は天気がいいから、陽炎が幻を見せているのかもしれない。ふと、ハーヴェイは思った。 だって彼は最後の戦いで呪われた紋章を使い、命を使い果たして海に流されたはずだった。 まだ微かに胸を上下させている少年を、抱き上げて小舟に横たえたのは、ハーヴェイの相方だった。忘れられるわけがない。 オベル王国に帰還したリノ王が、群島諸国連合の成立を宣言した日。海賊ながら招かれたハーヴェイたちも、戦争の終結を見届けた。 エルイール要塞での戦いからしばらく経っていたが、海に消えていった少年のことは誰も口にしなかったはずだ。 軍主と軍師を筆頭に失われた命は多く、戦いを共にした者たちの傷だけが残った。 その、はずなのだが。 ────生きていたのか。 どうやって。いつ。知っていたのか。誰が? 目まぐるしく、思考が入り乱れる。もう一度確かめるように見やった先で、少年は穏やかな表情を浮かべている。 一時の驚愕が過ぎ去れば、じわじわと呆れに似た感情が浮かび上がってくる。 自分が死人として悼まれていた自覚もないのか。久しぶり以外に言うことがあるだろう。しかも、ここには そしてはっと、思い至った。そう、そのシグルドだ。 「ラ────」 ラズロ様、と。口に馴染んだ名前を呼ぼうとしたのだろう。悲鳴のような切れ端は、青い空に消えていった。踏み出しかけた足が砂浜に食い込む。代わりに、ぎちり、と骨のきしむ音が手から聞こえた。 踏みとどまったか。 ハーヴェイは息を吐き出した。さすがに王女の前で、相方をぶん殴るわけにもいかない。 だいたい、本来それはシグルドの役目のはずだろう。なぜ感情的な自覚のある自分が、冷静なはずの相方の暴走を心配しなければならないのか。 「よくぞいらした、使者殿」 「いえ。こちらこそ、無理を言いました」 既にキカとフレアは当たり障りのない挨拶から始めている。 キカ一味は先の戦争に功があり、また義賊として名が知れ渡っているものの、海賊は海賊だ。 オベル王国の側から海賊島に来訪したいと連絡があったのは、少し前のことだった。しかも使者は王女自身だ。また水面下で大事が起こりつつあるのかと、戦の前のような心持ちで出迎えたのだが────。 フレア王女の朗らかな様子からすると、悪くない話のようだ。 「ふむ。続きはあちらで聞こう」 軽いやりとりを終えたキカが、アジトの洞窟を指し示す。場所を移して本格的な会談に移るらしい。 もちろん、ハーヴェイとシグルドはその場に控えることとなる。おそらく、ラズロも。 堅苦しい話が終わった後でなら、詰め寄ったところで怒られないだろう。文句くらいは言っても構わないはずだ。 そう、思ったときだった。 洞窟へ歩みを進めていたはずの主が、足を止める。 「ところで、本題に入る前に一つ、提案をいいだろうか」 「あら。私も、少し時間を取ってもらうつもりだったんです」 「そうか。気が合うな」 示し合わせたかのように、キカとフレアがこちらを振り返る。 「シグルド」 「ラズロ」 は、と背筋を伸ばしたシグルドに、キカが告げる。 「立会人はハーヴェイで十分だ。おまえはその面をいい加減どうにかしろ。せっかく、使者殿が手土産を連れてきてくれたのだからな」 その隣ではフレア王女が、目を瞬かせるラズロに勝ち気な笑みを向けている。 「護衛の役目、ご苦労様でした。というわけで、あなたの仕事はここまでよ。あとは自由にしていいわ。積もる話もあるでしょう?」 ────なるほど、そういうことか。 ハーヴェイにも、少しずつ話の運びが見え始めていた。 いい加減、シグルドの完璧な作り笑顔にはうんざりしていたのだ。 死人は蘇らない。時間が癒してくれるのを待つしかない。そう思っていたから、手も口も出さなかっただけで。 どうやら久々に愉快な気分になれそうである。頭の後ろで手を組んで、ハーヴェイは傍観の態勢に入る。 我らが頭領に感謝を告げて、シグルドが動いた。 鎖を放たれた犬の勢いで詰め寄るかと思った男は、ゆっくりとラズロに歩み寄った。ここが砂浜でなければ、靴を鳴らす音が響き渡りそうな足取りだった。 「ラズロ様。……生きて、いらっしゃったのですね」 感情の排された、平坦な声。ハーヴェイにはそれが、嵐の前の凪だとわかった。 その証拠に、シグルドはあからさまによそ行きの笑顔だ。ラズロの前では基本、気味が悪いほど穏やかな好青年の面を崩さなかったくせに。あれは腹の奥底でふつふつと怒りを溜めている。 ラズロも不穏な空気を感じ取ったのか、きょときょとと視線を彷徨わせている。 「ええと……生きていた、といいますか……。たぶん一度死んではいた、んだけど……生き返ったみたい? というか……」 ラズロは基本、礼儀正しい少年だ。 だから軍主という立場でなければ、年上にタメ口を利いたりしない。しないのだが、笑みの深まったシグルドに気圧されたらしく、かつての砕けた口調に戻した。 「いつ頃、気がつかれたんです?」 「あの戦いから……半月は経ってた、かな……?」 ハーヴェイは見た。黒髪から覗くこめかみに、ぶっとい青筋が浮かんだのを。それでも笑顔を保っていたことだけは、素直に賞賛してやろう。 「ちなみに補足すると、たまたま哨戒に出ていたお父さんが見つけたらしいの。しかもラズロに口止めされたからって、最近まで秘密にしてたのよ!」 「フレア、あの……」 「なぁに? 私がこそこそしてるお父さんに詰め寄らなかったら、あなた顔を出すつもりもなかったんでしょう?」 ふん、とフレアが腰に手を当てた。 「ああそれと、罰の紋章はラズロが持っている限り、もう命は削らないんですって」 「なるほど。貴重な情報をありがとうございます、フレア王女」 にっこりと、これ見よがしに笑顔を浮かべて、シグルドは正式な礼を取った。輝く笑顔で王女がそれを受ける。 突然始まった茶番に、当事者のはずのラズロが小首をかしげる。断言するが、『ふたりはどうしてこんなに怒っているのだろう』という顔だった。怒っている、ということは辛うじて理解しているあたり頭が痛い。 ラズロは、知らないのだ。 エルイール要塞から凱旋する本拠地船の、勝利の余韻など欠片もない、あの墓場のような沈鬱な空気を。 波に揺られて遠ざかる小舟から彼が起き上がってこないかと、一縷の祈りを込めて甲板を離れられない背中の数を。 降り始めた雨の中、けぶる海の果てを見つめ続ける横顔を。 彼は知らず────想像も、できなかったに違いない。 「ラズロ様。つまりあなたは、五ヶ月以上前には生還されて、なおかつ罰の紋章の脅威が去ったと自覚していたわけですね?」 ラズロが『そうだけど……?』と顔に書いたままこくりと頷く。 「あの、罰の紋章のことだったら、僕が持っていれば問題ないんだし……その、リノさんにわざわざ広めてもらう必要もないかと思って……」 おいおいマジかよ、とさすがのハーヴェイも額に手を当てた。 そんなことはどうでもいい、とは言わないが。 ラズロを乗せた小舟がどこかの島や船に流れ着き、罰の紋章が新たな宿主を見つけてしまう可能性はあった。わかっていて、船が十分な距離を取ったあとも誰一人、紋章砲で沈めるべきだとは言い出さなかった。 軍主の眠りを妨げることを、彼の体を物のように破壊することを、誰もが望まなかったのだ。 自分たちが心配していたのは罰の紋章ではなく、ラズロ自身なのだと。いつからか、その重さは逆転していたのだと。 誰ひとりとして、ラズロにそう思わせることはできなかったということか。 なんだかんだ可愛がったつもりでいたハーヴェイも、少なからず気に掛けていたキカも。友人のために懸命だった騎士団の連中も。姉のように面倒を見ていたフレア王女も。リーダーとして慕っていた船の仲間たちも。 そして、たった数ヶ月の間とはいえ、恋人として慈しんだシグルドさえも。 あーあ、とハーヴェイは胸の内で呟く。この先に待つ少年の運命を想像して、哀れんだ。ほんの、少しだけ。 「そうですか。……一応お聞きしますが、俺に連絡を取ろうとは思ってくれなかったんですか? 恋人でしょう?」 「え?」 ラズロの驚きをあらわにした声は、静まり返った砂浜によく響いた。 キカが、珍しく苦笑を浮かべる。フレアは呆れ果てたように天を仰いだ。オベルからの随行員は少し離れた場所にいるが、あの船に乗っていた者たちなのか、誰も驚いた様子はなかった。 ややあって、ラズロが恐る恐る、背の高い相手を見上げる。 「もしかして……シグルドは、その……僕のこと、まだ好きでいてくれてたんですか……?」 感情の色が薄い少年の声には、期待が微かに滲んでいて。喜び、さえ垣間見えて。────まだ、ラズロ自身はシグルドが好きなのだと、容易に知れた。 その瞬間、シグルドから全ての表情が消え失せた。 「げっ」 反射的に、呻き声が出た。輝く太陽と青空の下にいるのに、一気に温度が下がったような気がした。 相方は冷徹な部分もあるが、冷酷ではない。この男がミドルポートの軍人をやっていた頃からの付き合いだ。修羅場に出くわしたこともあるし、本気で怒らせたことだって何度もある。 だがこれほどまでにキレたシグルドは見たことがなかった。 「なるほど。あなたの中で俺は、恋人を喪ったらさっさと気持ちを切り替える男だったわけですか。……いや、初めから期間限定だとでも思っていたんですか?」 「そ、んな、つもりは……」 ラズロがうろたえる。 そう、付き合っていると認識していた頃の彼は、シグルドに思われている自覚はあるようだったから。 ただ、自分の存在を、シグルドにとっての彼を、重く見ることができなかっただけだ。他人に期待せず、諦めてしまうのが早いだけだ。それが彼の育ちゆえの癖だとしても────致命的なほどに。 凍り付きそうな眼差しで、淡々とシグルドが告げる。 「あなたの意思をできるだけ尊重したいと思っていましたが……俺がどう思ったところで、届きもしないなら意味がないと、よくわかりました」 リーダーとして仰ぐだけではなく、個人としても好感を持ってから、シグルドは努めてラズロに優しく振る舞おうとしていた。甘いを通り越し、蜜のように蕩けた声音が耳に入って、こちらの背筋がかゆくなったことは一度や二度ではない。 彼が大切だからこそ、シグルドは丁寧な態度を崩さなかった。荒くれ者の集まりに容易く馴染んだ本質を、うっかり出してしまわないように。 そう、だからラズロは、シグルドを穏やかで優しい人間だと思っていたのかもしれない。 この男だとて、立派な海賊だというのに。 冷ややかに、シグルドは微笑んでみせた。 「俺は海賊ですから。海賊の流儀で、あなたにわかってもらうことにしましょう。────もう二度と、俺の想いを疑われないように」 え、あの、と戸惑うラズロの腕を引く。仕草こそ丁寧だが、有無を言わせない強引さが滲んでいる。問答無用で担ぎ上げないだけ、まだ理性は残っているらしい。 一歩足を進めて、シグルドがキカへと向き直った。 「キカ様。お言葉に甘えて、この場を離れても構いませんか。……できれば、数日ほどいただきたいのですが」 「構わんが、加減はしてやれよ」 「俺も必死ですから。善処はしますが、確約はできませんね」 鷹揚に笑ったキカが頷く。 「フレア王女。彼を、浚っていってもよろしいですか?」 「大切にしてくれるなら構わないわ」 「お任せください」 うやうやしく、シグルドが頭を垂れる。キカとのやりとりはなんだったのか、と突っ込みたい空々しさだ。 「あの、シグルド……?」 「ではラズロ様、こちらに。……ハーヴェイ、あとは任せた」 「おーよ」 せいぜい頑張れ、という意も込めて、軽く手を振ってやる。にこやかに笑ったシグルドが、「さあ」とラズロの手を引いた。 ちなみに、隠れ家といえど海賊島のアジトは意外と奥行きがある。下っ端はともかく、幹部であるシグルドたちにはそれなりに広く、防音も効いた部屋が割り当てられていた。 連れ込まれたラズロがどんな目に遭うかはわかりきっていたが、ハーヴェイは笑って見送った。 彼らが去ってから、その場に残された者同士、ふと目を見合わせる。 「……姫さん、いい根性してるじゃねぇか。最初からそのつもりだったんだろ?」 「あら。私は護衛として、腕も立って信用できる相手を選んだだけよ。ついでに、離ればなれになった恋人に会えるよう取り計らっただけ」 「そういうことにしとくぜ」 にやりと、共犯者の笑みを交わす。 しばらくはシグルドがラズロを離さないだろうから、まともに顔を合わせるのは数日後になるだろう。送り出す前に一言くらいなにか言ってやればよかったかもしれない。 「あ、そういやあいつ、キカ様にも挨拶してねえじゃん」 「いいさ。生きていたのだから、機会はいくらでもある。……まあ、シグルドが物騒な方向に走るようなら止めてやれ」 「了解っと」 とはいえ、シグルドの性根はほどほどに真っ当だし、どうしたってラズロには甘い。どれほど怒っていても、本当に無体な真似はしないだろう。 だから存分に、どれほど思われていたのか、心配されたのか。そして生還を喜ばれているのかを、体に叩き込まれればいい。 そう思うくらいには、ハーヴェイも怒っていた。 「つーかキカ様、止めないんですね。今更ですけど」 ふ、とキカが口元だけで笑う。 「私だとて、それなりにあいつを気に入っていた自覚はあるさ」 おまえもだろう? と目で問いかけられて、意地を張る理由もなく頷く。 「さすがに、連絡もなくていいと思われたのはな。シグルドに絞られるくらいで丁度よかろう」 キカもまた、ご立腹だったというわけだ。 「しかし……一応、オベル王には別口で連絡を入れておくか。どうせあれが離さないだろうからな。後で帰せと騒がれてはかなわん」 「ついでに嫌みも言うんでしょ?」 「当たり前だ」 「私も協力させてもらっていいかしら。ほら、ラズロに頼まれたからって、やっていいことと悪いことがあると思うんです」 にこやかに笑う王女も、父親に秘密にされていたことを根に持っているらしい。ラズロ自身の性質はある程度仕方がないとして、リノ王は理解しての所業なのだから尚更だ。 キカが機嫌よさげに「多少は反省してもらわんとな」と笑う。 「よし、使者殿との会談ついでにやるか」 「是非」 ハーヴェイの主は語るまでもないが、オベル王国をいずれ統べる王女も、なかなかどうして女傑の片鱗を見せている。 歩き始めたふたりに付き従いながら、ハーヴェイは空を見上げて笑った。 「ま、 [#] 幻水108題 042. 我があるじを讃えよ || text.htm || |